遺品は語る

写真館をなさっている方の押入れにそれは乱暴に放り込まれていた。
錆びあがった脇差と何やら古文書のようなもの。。。。。
天保八年、大塩平八郎の乱が勃発。
その際、活躍したのが、名与力として名高い内山彦次郎。幕府から感状を拝領し大いに名を上げた。
しかし人生そんなに甘くはなかった。元冶元年新撰組によって暗殺される。
刺客は近藤以下、沖田、原田、永倉、井上。
「はじめ、籠に向かって突いたのが沖田。内山はとっさに鞘のままの脇差で跳ね上げようとしたが、鞘にかすっただけで脇腹に突き刺さった。首を落としたのは近藤。」と永倉は語っている。
新撰組の記録によると、米や灯油を買い占め、諸物価高騰を計り幕府治世の人気を落とす為としているが勿論それは、うわべの理由で、大坂力士殺傷事件について厳しく追及された事への報復。
実際内山は物価が高騰しあえぐ大坂町人の為、物価引下げを幕府に申請し、これを受けた幕府は一与力の意見を早速採用し、米価二割引き下げのおふれを出している。
それを聞いた前述の写真館経営の内山さん、「新撰組に暗殺されたとは、しらんかった。幕府の有能な役人やったので、てっきり勤皇派志士に暗殺されたばっかり思てた。」
伝統的役人嫌いの大阪と言う土地柄なのか、大塩人気を憚ってなのか、内山さんはほとんど彦次郎の事を先祖から聞いていない。
「私も役人は嫌いや。」とおっしゃる内山さんの押入れからは、役人として名を上げた大塩事件感状と、沖田によってつけられた刀疵がくっきりと残る脇差が無造作に放り込まれていた。





大塩平八郎鎮圧で幕府が内山に宛てた感状


遭難時の脇差と鞘に残る疵








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