桜田門外の変


今更、桜田門外の変について一から書いても、皆さんすでに熟知していらっしゃるので割愛させて頂きますが、高橋多一郎親子の名はあまり知られていない。高橋は金子孫二郎と共に井伊大老襲撃の指導者的立場の人物で、文武に秀で特に抜刀術において名を知られていた。多一郎はその子庄左衛門と共に大阪四天王寺に葬られている。水戸藩士が何故大阪にと思われるが、東に井伊大老をたおし西に大坂で義兵を挙げ天朝を奉じて幕政改革を実現しようとせんが為に大坂に潜伏していた為である。しかし井伊大老の暗殺は成功したものの肝心の挙兵がうまくいかない。最大の誤算は当てにしていた薩摩藩の兵三千が一向に立ちあがる気配が無かった事であった。そのうち幕吏の詮索が身辺に伸び住吉の潜伏地にも役人達に囲まれ、意を決し何事も無かった様に息子と共に四天王寺の茶店に入った。役人達はすぐには手を出さず遠巻きに彼らを監視するだけであった。茶店に入ると多一郎は草鞋を買い求め、それを履き終わるとおもむろに腰の短刀を抜きさり腹に突き立てた。店の亭主が、「こんな所で腹を召されては手前共が迷惑です。」と言うので多一郎は荘左衛門に付き添われて四天王寺境内の大黒堂東隣にあった寺侍小川欣司兵衛宅の玄関に立ち、「私は桜田門外の首謀者の高橋と申す者でござる。事成らず自裁せんとするする者で暫しお座敷を拝借したい。」
小川も義の人物であったらしく、「それはご無念、ではお静かにご生害めされよ。」とかえした。
多一郎は座敷の始末代として所持金の六二両を差し出し先祖伝来の貞宗の刀を故郷に送ってほしいと頼んだ後、
流れ出る血潮で襖に、「鳥が鳴く東健夫のまごころは 鹿島の里のあなたとぞ知れ」と書きつけ、息子に「先に参る」
と言って割腹。年四十七。
父の最期を正座して見届けた庄左衛門は父の流れ出た血潮で、「天下のために国賊を誅す、、、(以下にじんで不明)」
と書き自決しようとしたが、小川が引きとめた。
しかし庄左衛門は、「おめおめと生き永らえるつもりはござらぬ」の一言を残して見事割腹。行年一九。

高橋多一郎、庄左衛門父子げんえい地碑
げんえいとは埋葬の意
墓所全景
同墓碑
墓碑正面
割腹地跡小川欣司兵衛邸跡)

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