*慶応四年二月一五日 堺事件*

日本のハラキリが西洋諸国に知れ渡るきっかけになった土佐十一烈士の切腹。これを堺事件、又は妙国寺事件と呼んでいる。


事件の概観(日史観)

慶応四年鳥羽伏見の戦いに敗れ将軍慶喜はじめ幕府の役人は江戸に逃げ帰った為、大坂、神戸、堺は一時的に無政府状態になった。そこで朝廷は大坂を薩摩藩、神戸を長州藩、堺を土佐藩にと、治安維持を命じた。
その時天保山沖に投錨していた外国船16隻のうちフランス軍艦一隻が堺港に現れ2月15日、艀に分乗した水兵が上陸した。
デュプレクス号艦長プティ・トゥアールはその書簡で、水兵が上陸散歩する許可を求め、その許可を与えた理由としてせいぜい200メートルぐらいという事、上陸しても日本人が不快な気持ちを示さず歓迎的であったことを述べていますが、当時正式な上陸許可は外国事務係前宇和島藩主伊達宗城の許可が必要で、その通達も事前に土佐藩軍監府に届け出る必要があったが、そういった手続きをふまず多分に心象的判断で上陸したフランス側に落ち度があったことは衆目一致の事実である。
しかもフランス側の資料には一切記述は無いが、神社仏閣に侵入し怖がる婦女子を追い回す等傍若無人の振る舞いをしました。
そこで町民からの訴えを聞いた土佐藩士は現場に急行、説得して船に帰すのが良策と判断し身振り手振りで船に帰るように示したがいかんせん言葉が通じない為、却って藩士に向かい笑い出したり、口笛を吹き踊り出すという事態になりました。
事ここに至り堪忍袋の緒がきれた藩士達は捕縛し陣屋に引っ立てること決意したがフランス兵達は逃げ出し、その際土佐藩隊旗を奪うという愚挙に出ました。隊の命とも言うべき隊旗を奪われては一大事という事で懸命に追走、幸い旗持が脚の速さが看板の鳶職であった為たちまち追いつき一撃を加えて隊旗を奪い返した。
それを見たフランス兵達が艀から短銃を発砲、土佐藩もこれに応酬し、たちまちにして銃撃戦になった。
フランス側の文献によると発砲は土佐藩側からという事、自分たちが犠牲になったこの事件を引き起こす口実となるような影さえも与えていないという事を主張。
どちらから発砲という事は今に至っては無益な水掛け論に終始するが無許可で上陸した事がこの事件を引き起こしたのである。
この銃撃戦でフランス兵11名が射殺あるいは溺死し、内に問題を抱える上「神戸事件」から間も無い為、日本政府はフランス側の要求を全面受諾する事になりました。
その要求とは、加担者の処刑、遺族に対する15万ドルの賠償金の支払い、朝廷の謝罪、藩主豊範の謝罪、開港地の土佐藩士の通行禁止というものであった。
朝廷は土佐藩の堺警備を解き、高知にいた藩主豊範も病をおして上京といった中、処刑者が籤で選ばれ六番隊隊長箕浦猪之吉、八番隊隊長西村左平次以下二十名に決まった。(土佐稲荷において)
処刑場は事件の現場から程近い妙国寺で行われる事となった。
余談ではあるがこの時フランス側を妙国寺に案内したのは後、大阪経済発展の父になる五代友厚である。
処刑者達も決して罪人扱いはされず皇国の為皇国の士気を十分示すようにと士分に取り立てられ、藩主から拝領の絹一重をまとい、細川家、浅野家差出の籠に乗り300人の兵士に守られて妙国寺に赴いた。
処刑が始まるまで時間があったため、求めに応じ一筆を認めたり、境内を散歩したり自分達が埋葬される宝珠院の墓穴を見に行ったり冷静で落ち着いていたという。
いよいよ処刑の時を告げる鐘がなり最初、箕浦猪之吉が呼ばれ三方にのせられた短刀で腹をかっさばき呪詛の言葉と共に臓腑を掴み出したところで介錯人の馬渕が介錯。三太刀目でやっと首を切り落とした。
この時猪之吉弱冠25歳。
そして西村左平次がそれに続き割腹。行年24歳。次々と切腹が行われていたが12人目を前にあまりの惨状に公使ロッシュは五代に中止を要請、受諾された。
しかし次番の橋詰は切腹を懇願したが受け入れられず舌を噛み切ったが命に別状なく浅野藩からは特別侍医が付けられ土佐藩からも看護人が付けられた。
以上のように預人の待遇は至れり尽せりで、間も無く朝議により正式に切腹取り消し国許送りになった。
箕浦猪之吉辞世

   除郤妖気答国恩 決然豈可省人言 唯令大儀伝千載 一死元来不足論
  (妖気を除却して国恩に答う 決然として人言を省みるべけんや ただ大儀を千載に伝えしめん 一死元来論ずるに足らず)

最後に、、、
 現今このように魂の発する機会は皆無に等しい。まさに時代が人を造ると言うべきか。
妙国寺に残る遺品を見ていると無念であったろうと万感胸に迫るものがあります。

大坂土佐藩邸跡
死のくじ引きが行われた
土佐稲荷
妙国寺 堺市
箕浦以下十一烈士の遺髪
箕浦猪之吉所用陣笠
フランス兵より分捕った短筒
西村佐平次直筆辞世
慰霊碑
中央の碑の前面に殉死者名
右側面に助命者名
同碑の拡大写真
フランス兵の慰霊碑
付近にある記念碑
割腹跡

宝珠院 堺市
宝珠院の門前の碑
土佐十一烈士の墓
箕浦猪之吉墓
和泉砂岩で作られたために損傷
が激しいが昭和45年に樹脂が注入
された。
西村佐平太墓

堺事件発生地跡(仏人撃攘之処碑) 堺市
現在の事件現場
案内板
天誅組上陸碑もある
左、堺事件碑
右、天誅組碑
土佐十一烈士顕彰碑
天誅組上陸記念碑
記念碑全景

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