幕末剣界大人物のその後

時は今だ幕藩体制の余韻が色濃く残る明治の頃、大阪府羽曳野市誉田(こんだ)に鎮座する誉田八幡宮に一瞥して只者ではない老宮司がいた。
宮司は決して過去を語る事は無かったが、人々は尊敬の念と共に次ぎのエピソードを残している。
大阪から人力車での帰途、三人組の強盗に襲われた。しかし老宮司微塵の当惑をも見せる事なく逆に大和川に叩き込んだと言う。それもその筈、その老宮司とは幕末江戸三大道場の一つ、位の桃井と詠われた桃井春蔵直正その人だったのである。 
慶応三年、講武所師範役から遊撃隊頭取並として桃井は将軍慶喜と共に大坂入り。
しかし朝敵の汚名は避けるべきと言う穏健派だった。
同年十月、大坂城において大評定が開かれ開戦必至の流れの中、開戦反対を唱え十一月辞表を出し河内・石川の幸雲院という寺に雲隠れした。
後、彼を再び中央に呼び寄せたのが仁和寺宮嘉彰親王で、大坂治安維持の為に設置された浪花隊の剣術指導を懇願し、桃井は快諾した。
しかしその使命も明治三年浪花隊の解散と共にお役御免となり、誉田八幡宮の宮司となったのである。
昭和の頃まで大坂入り後の消息と彼の遺品の行方はようとして知れず、話題になることもなくなっていた。
それが現在有名な桃井自画像や免許皆伝書などが再び世に出る事となったいきさつは次ぎの通りである。
時代は昭和、高度経済成長の最中。
府史編集資料室の加藤政一さんは明冶三年大阪府職員録の府兵局のページに「監軍兼撃剣師範、桃井春蔵」の名前を見つけた。
「幕府の剣豪が大阪の職員してたんか?ほんまにあの桃井やのんか?」
その日から加藤さんは古い紳士録をあさったり、戸籍しらべに区役所に通うという日々が始まった。
まず、「役人」桃井の六男、直貞が明治時代、富田林市の喜志小学校の教員から大阪市南区の木津小学校の校長兼学務委員を勤めた事が判明。
そこから、ひ孫にあたる桃井直秀さんが間組大阪支店に勤めている事がわかった。
そして事の顛末を聞いた直秀さんは、「うちのひいおじいさんがドエライ剣豪かもしれんやて?そういうたら、うちのおやじから、お前のひいじいさんは長官が応神天皇陵に発砲した時、長官に切腹せえ!ゆうた程の人やったそうですわ。なんか古い書きもんが家にありますわ。」
二人は直秀さんの家の押入れを捜索。出るわ、出る、剣豪桃井の免許皆伝書、家系図、自画像。
こうして再び、剣豪桃井の遺品が陽の目を見ることとなったのである。
現在も羽曳野市古市小学校をはじめ、周辺の旧家には桃井春蔵の筆跡が数多く残されている。

後記  なんか意外ですね、桃井が大阪にゆかりがあるなんて。 このように僅か、三代前の有名である先祖の事さえも知らなかったというのは、いかに歴史の伝達が難しい事で大切な事であるかが分かると思う。後日掲載予定の新撰組に暗殺された与力、内山家にも言える事である。ひょっとしたらあなたのご先祖も歴史上著名人物であるかもしれないですよ。

当時、発見された肖像
岡田以蔵と手合わせし「力だけでは駄目だ。心が空である。」と一蹴






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